ただの変態サンじゃないんだよ!(挨拶)
と、「武装錬金」のライナーノートでわさわさ作者の和月氏がパピヨンにフォローを入れているのを見て、改めてパピヨンはみんなから変態キャラとして愛されるんだなあ、と改めて思いました。深沢です。お久しぶりです。
ちなみに、私が好きな「武装錬金」の変態はムーンフェイスです(聞いてない)。
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そんな感じで、変態キャラが大活躍のみんな大好き「武装錬金」のコミックス5巻を、ようやく読むことができました。
「武装錬金」はどの巻を読んでも必ずグッと来るシーンがあって感心させられるんですけど、5巻における個人的な見所は、やはりコミックスのサブタイトルにもなっている『a friend of everybody』と、それに続く『沸き立つ力』の両エピソード。孤立無援の状況下で戦うカズキと斗貴子を「仲間」として学校のみんなに認めさせるために行動を起こすカズキの友達三人組と、戦っているのが兄のカズキだと確信し、「兄がみんなを守ってくれる」と信じて自分も友人を守るために身体を張るまひろの姿が、ンもう最高に格好良すぎます。
武装錬金というマンガは「大切な人を守るために諦めないで戦う」カズキの姿を真正面から描くことを大きなテーマとしていますが、カズキの友達三人組や妹のまひろもまたカズキと同じ想いを持っており、それ故に彼らはそれぞれ自分達ができる限りの力を尽くして戦うことができる――『a friend of everybody』というエピソードは、そんな彼らの姿を描いているように思えます。
彼らは武装錬金を持っていないため、この作品における「戦士」の定義からは外れるんですけど、でも彼らの中に宿っている心意気はカズキと同様の(ポジティブな意味での)戦士のソレに近いものを感じます。「覚悟のススメ」的な表現をするなら、「でも大丈夫! 戦士はもう一人いる!
」みたいなものだと思うのです。判って頂けるでしょうかこの気持ち。
作者の和月氏は、ライナーノートの中でこのエピソードを「『武装錬金』第一部のクライマックス
」であると語っていましたが、三人組達の活躍によって全校生徒がカズキを「仲間」と認めて声援を送るようになり、それを受けたカズキが巨大化した敵を一撃で粉砕してしまうシーンは、ある意味このマンガのテーマを集約しているように思えます。このシーンの異様な盛り上がりっぷりの前では、もう我々は素直に感動するしかありません。
更に、この「仲間達から力を分けてもらっているかのような強さ」が、5巻最後のエピソードであり、ストーリー上における大きなターニングポイントでもある「カズキ・ヴィクター化」への遠大な伏線になっている構成力の高さにも感心させられます。どこまで面白くなるつもりなのでしょうかこのマンガ。
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「武装錬金」というマンガは、いわゆる『少年マンガ』に求められているあらゆる要素をあますことなく詰め込んだ優れたエンターテイメント作品であることを、改めて実感させられました。いやもう、このマンガに足りないものは、掲載誌である週刊少年ジャンプのアンケート人気だけだと思います(ドクロ)。
つうか、どうしてこのマンガはドッキリポジション(専門用語)周辺を相変わらずウロウロしているんですか! 服だけ残して消えちゃった斗貴子さんの行方も心配だけど、そっちの方がもっと心配で物語に集中できないYO!(バカ)
和月氏のマンガは、内容が面白いことに加えて、マンガに取り組む真摯な姿勢がびしびしと伝わってくるという点で、読んでいて非常に嬉しくさせられる作品ですね。物語開始前まで一介の高校生だったはずのカズキを、いかにしてバトル主体の少年マンガの主人公に仕立て上げるか、その必然性を苦心に苦心を重ねて確立させようとした努力には本当に頭が下がります。「Gun Blaze West」で不発に終わったその努力・研鑚が「武装錬金」では大いに報われており、自分のことのように嬉しくなります(笑)。
ただ、あまりに真摯に読者の期待に応えようとしたため、かえって作者本来の資質が削がれてしまった印象も若干ながらあります。例えばカズキの3友人が放送室に「突撃」し、当たり前のようにヒーロー然として振る舞うのも、せっかく「一般人」としての能力的不自然さを招かぬよう細心の注意を払って来たこれまでの描写を踏み越える形になっており、私はちょっと残念に感じた所でした。他にも1巻の頃はなかった小さな軋みは途中から所々で感じるのですが、「読者の期待」を優先させ自己を抑圧した余り噴出した反動が、あのパピヨンへの過度な傾倒なのではないかと思っています。読者の勝手な思惑に右往左往させられる和月氏が実に気の毒。そこまでして読者に媚びなくてもいいよ、和月先生!どうせ読者の大半は大して考えもせずその場の思い付きでいろいろリクエストしてるだけなんだから!もちろん創作者として受け手の声を真摯に受け止めることは大切なことだけど、和月氏はもうちょっとだけ、自分の我を通して「描きたいことを、描きたいように」描いてもいいんじゃないかと思います。
(4~5巻の「霧の中の学園・取り残された生徒たち・襲い来る異形のものたち」というシチュエーションは、「調整体」登場時の衝撃的な描写ともあいまって「漂流教室」をちょっと思い起こしました。「武装錬金」は、「漂流教室」に匹敵するような歴史的ポジションに達したのかもね、と思わされた流れです)
「るろ剣」の時代に和月氏の真価を見抜けなかった自分の不遜を恥じつつ今を生きています(おおげさ)。
三バカ友人に関しては、和月先生が「打ち合わせで何度かあの三人を戦士にという案は出たけど、全て突っぱねた。誰もがヒーローになれる訳じゃないけど、それでも戦うことはできる。ジャンプではあまり好まれない=人気が取れないテーマですが、これはどうしても描きたかった」とライナーノートで書いていることを考えると、あれが「人気におもねることなく作者が描きたかった、一般人として戦う友人達の姿」だったんじゃないかと思います。
まあ一般人にしては格好良すぎますけど、でもあいつらならあれくらいはやるよな! と納得できるだけの描写をこれまでのマンガの中で積み重ねて来ていると思うので、個人的にはそれほど不自然には感じませんでした。それより何より、あんな感じで戦う彼らは格好いいですしね!(重要)
「武装錬金」は歴史に残ります。確実に。
はい、ライナーノートはもちろん読んでいます。前回の文章はその上で書いたものです。和月氏がそう述べていてもなお、あのシーンは拙速のきらいがあると思っています。
第2巻収録の、第14話のライナーノートに述べられていますが、この時点で読者受けを大きく考慮に入れて、作品の方向をまひろと3バカをもっと作中に絡めるようにシフトしています。「放送室の1件」はこの流れの延長線上にあると見るべきでしょう。もちろん「彼等なりに普通の人としてキチンと戦う」とも書いてあることから、ここで3バカの何らかの活躍をすることが要素の一部だったことは間違いないでしょう。しかしそれは当初想定していた形とは、大部違った姿であったはずです。
前回の繰り返しになりますが、「普通の人」にしては鈴木震洋に対する疑いの抱き方の早さ・追求の仕方の手慣れ方・度胸と行動力がありすぎますし、エンジェル御前が一般人の前に姿を表す慎重さの欠け方・エンジェル御前を見ても全然動じない3バカ、と、疑問を呈さざるを得ない要素が続出しています。(もちろん、だからといってその辺りの説得力を増そうとして描写を手厚くすると、今度はカズキと斗貴子の描写が手薄になってしまう、というジレンマをかかえていますが)
>まあ一般人にしては格好良すぎますけど、でもあいつらならあれくらいはやるよな!と納得できるだけの描写をこれまでのマンガの中で積み重ねて来ている
うーん、私はそうは感じません。彼らの特異さはこれまでほとんどギャグの文脈の中で発揮されています。せいぜいが「自分達とは違う世界で戦いに臨むカズキ達を、何の疑問も抱かず見守ることができる」までで、切ったはったの世界にまでは進出してきませんでした。これまた前回の繰り返しになりますが、「武装錬金」は連載開始当初、そこの所の「世界観を踏み越えてしまう」エラーには極めて慎重だった作品です。それが今回、ついにその枠を破ってしまったところに、若干の残念さを感じざるを得ません。
もっとも、それらも全体から言えば小さな欠点でしかなく、全体としてはやはり読者と作品の両方に限りなく真摯で、面白いマンガを生み出そうと苦闘する和月氏の素晴らしい資質が開花している作品であることは間違いありません。まだ他にも不安材料はあるのですが、今後の展開でそれらを吹きとばしてくれることを信じたいと思います。
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