2007/02/04

■ミッション・スクール

 「マリみて」の蔦子さんの名前は、『蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日』で始まる「学生時代」から来ていたという説を展開!(挨拶)

 マンガではないですが、せっかく読んだのでちょっと紹介。

ミッション・スクール (中公新書) ミッション・スクール (中公新書)
佐藤 八寿子
中央公論新社 / ¥ 798 (2006-09)
 
発送可能時間:在庫あり。

 「マリア様がみてる」の大ヒット以降、この界隈でも物語の舞台としてよく使われるようになったミッションスクール。この本は、近代日本におけるミッションスクールなる存在に対する社会的なイメージの時代による移り変わりを、様々な文献や文学作品を紐解いて解説しています。

 この本が我々にとって面白いポイントは、現代におけるミッションスクールに対する大衆イメージの代表例として、「マリア様がみてる」の巻頭に載っている『「ごきげんよう」「ごきげんよう」』から始まるあの文章を紹介しているところ。この本の著者の佐藤八寿子氏は、序章において「マリみて」の巻頭文を引用した上、リリアン女学園は作者が創作した架空の存在であって実際にはこのような学園は存在していないにも関わらず、『非常にリアルにわれわれのイメージするところのミッション・スクールを描き出している』と述べます。

いかにもそれ「らしい」断片から構成されたのが、作者オリジナルのリリアン女学園なのだが、われわれはそこに違和感を覚えない。むしろ、どこにも実在しないリリアン女学園は、私たちの「中」にあるミッション・スクールを如実に体現している。では、私たちの中にあるミッション・スクールとはどのような存在なのか。

(ミッション・スクール 6ページ目より)

 この疑問を出発点として、「マリみて」で語られているようなステレオタイプな「私たちの中にあるミッション・スクール」のイメージが如何に形成されていったのかを、明治から平成までの時代を追う形で解説しています。

 紹介されている文献は、明治時代の新聞記事から田中康夫氏のエッセイに至るまで多岐に渡りますが、特に大正~昭和にかけての文学作品や映画に見られる「ミッション・ガール」(ミッションスクールに通う女学生)についてはかなり詳しく考察と分析が行われており、結果的に「ミッション系女学生で観る近代文学史」として読むことができるようになっているのが面白いところ。
 また、戦後における「ミッチーブーム」も取り上げており、美智子さんが幼稚園から大学まで一貫してミッション系の学校に通っていたことがミッションスクールのブランドイメージを大きく向上させた、としています。「マリみて」に出てくる「十八年間通い続ければ温室育ちの純粋培養お嬢さまが箱入りで出荷される」ってのは、この時に形成されたミッションスクールのイメージを反映させたものなのかな、とか思いました。
 こんな感じで、「マリみて」に代表されるステレオタイプなミッションスクールの大衆イメージは、明治以降の長い歴史を経て形成されていったものである――ということがよく判る本です。

 基本的にはミッション・スクールに本気で興味がある人が読む本ですが、「マリみて」とかのミッションスクールが舞台の少女小説が大好きな人が読んでも楽しめるのではないかと思いました。
 また、最後の方には自分の娘をミッションスクールに入れたくて仕方がない父親の話も出てくるので、娘ができたらリリアン女学園に! とか、今度生まれ変わったらリリアン女学園に入って、紅薔薇さまの信奉者に! とか本気で妄想している人にもお勧めしておきます。

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2006/03/01

■マリア様がみてる・未来の白地図感想

マリア様がみてる・未来の白地図 後半のあらすじ

 断ゆることなき未来への不安が
 触れるもの全てを疑い! 憎み! 引き裂く!
 瞳子にふさわしい姉など居ないのだ!

「気に入った!
 この祐巳と共にリリアンを駆ける妹は、それくらい気性の激しい方が良い!
 何としても おまえをいただく!」

(つづく)

 ちなみに元ネタは、「覚悟のススメ」10巻の散と霞の着装シーンです。
 3月にマリみての新刊が発売されるとの情報を掴んだので、今更ながらマリア様がみてるの(現在の)新刊「未来の白地図」の感想を簡単に書きます。

 この巻で印象に残ったのは、やはり瞳子のツンツンっぷりです。彼女は現在、我々読者には与り知らない理由で窮地に立っているようなのですが、そんな彼女の心境を察してついに自ら手を差し伸べた祐巳に対しても「聖夜の施しをなさりたいなら、余所でなさってください」と冷たい言葉を返して一撃で葬り去る、道理を超えた大理不尽なまでのツンっぷりがお見事。むしろお美事
 瞳子が内心では祐巳の存在を求めて止まない状態であることは既に「特別でないただの一日」以降の彼女の動向を見れば明らかな上、何らかの理由で彼女は自身の将来に対して何らかの不安を感じており、今まさに誰かの助けを必要としている状態であることは自分でもよく判っているであろうにも関わらず、それでも差し伸べられた手を「哀れみからの施し」と解釈して拒否せざるを得ない彼女の心理たるや、もはや尋常なものではありません。

賭けとか同情とか、そんなものはなしよ。これは神聖な儀式なんだから

 祥子が祐巳を妹にした時の言葉こそ今の瞳子には必要なはずであり、また祐巳も祥子がこの言葉を発するに至った境地に達することが必要なのだと思うのですが、まだ当の祐巳は自分が瞳子を「妹」にしようと思った心理が何であるかを明確に自覚できていない以上(祐巳が瞳子を妹にしようとした理由を「何となく」と表現していることが、それを象徴しているような気がします)、今の状態ではさすがの祐巳も、極限までひねくれて爆発寸前な瞳子に差し伸べた手を受け取ってもらうのは無理なのも仕方ありません。
 不完全な状態でうかつに手を出したりしたら、瞳子に再びしかるべき因果を極められてしまうのは必至であります。

 おそらく次巻以降で、何故瞳子が現在の心理状態になるに至ったのか? という説明描写が入ることで二人の状況は変化すると思われますし、何より一度瞳子に因果を極められた祐巳が懲りずに「何としても おまえをいただく!」みたいなことを言っている以上、最終的にはこの二人は姉妹の形で落ち着くのではないかと予想はできるのですが、でも実際にこの二人が姉妹となって「鋼我一体! 心はひとつ!」とか叫びながら血盟を果たすまでには、まだまだ相当の艱難辛苦が予想されます。

 OVAで発売されるアニメ版が全てリリースされるのが先か! それとも、小説版の中で祐巳と瞳子が姉妹になるのが先か!
 「マリア様がみてるプロジェクト2006」は、まだ始まったばかりなのだ!(←年末までこのネタを引っ張りかねない予感)

マリア様がみてる―未来の白地図 (コバルト文庫) マリア様がみてる―未来の白地図 (コバルト文庫)
今野 緒雪
集英社 / ¥ 460 (2005-12-22)
 
発送可能時間:在庫あり。

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2005/06/23

■マリみて感想・妹オーディション

マリア様がみてる・妹オーディション前半のあらすじ:

 『黄薔薇のつぼみ』の中目録を持つ島津由乃は、秋になってもまだ妹を見つけられないでいた。

 「山百合会の看板に泥を塗られ申した!」
 「一刻も早く妹を見つけねば! まごまごしていると江利子さまが嘲笑いはじめ申す!」
 「物笑いになってからでは遅い! 一度潰れた面目は二度とは戻りませぬゆえ!」

 「一応の妹を立てる

 私の頭の中では何故か「シグルイ」と「マリみて」が不可分の関係になっているため(理由)、シグルイ4巻を購入した直後、不覚にもまだこのサイトで「妹オーディション」の感想を書いてないことを思い出しました。なので今更ながら書きます。
 もうすぐ次の新刊「薔薇のミルフィーユ」が発売されるので、次刊への期待も込めて。

(一応注意:以下は「妹オーディション」のネタバレをバリバリ含みます)

 「妹オーディション」の表面的な主人公は島津由乃なのですが、の主人公はやはり福沢祐巳。
 そんな巻でした(感想)。

 福沢祐巳というキャラは、物語の焦点が「祐巳の妹は誰になるのか」という点に移った時期(「涼風さつさつ」以降)から、「仲間のことになると気が利くけど、自分のことになるとまるっきり鈍感」というキャラクター性を持つようになります。
 この巻は、彼女のそんなキャラクター性が、余すところなく発揮されていました。

 まず前者の「仲間のことになると気が利く」ポジティブな側面に関しては、茶話会に参加して来た内藤笙子に対して「彼女が求めているものは、山百合会ではなく武嶋蔦子だ」ということを直感的に見抜き、この二人を掛け合わせるために様々な策を講じて暗躍した、物語後半の活躍が強く印象に残ります。
 また、ミスをした下級生にミスを指摘しつつ的確なリカバリー方法を指示したり、結局落選した妹候補達にフォローを入れ、彼女たちの今後の山百合会に対するわだかまりを軽減する努力をするなど、下級生に対して細やかな気配りができるようになったことを読者にさりげなくアピールしている点も、小さい部分ではありますが見逃せません。

 これらは、彼女が『紅薔薇さま』として生徒達をまとめる能力を既に有しつつあることを、端的に示していると考えられます。
 由乃の妹となるべき運命を授けられた少女・有馬菜々が中学三年生であったことから推測できるように、「マリア様がみてる」という物語は彼女たちが「薔薇さま」と呼ばれる立場になった以降も継続することがほぼ確実な情勢なのですが、そういう意味でも「福沢祐巳は下級生に人気がある」という(これまでは単に文章で説明されている程度だった)設定を補強し、彼女がいずれ最強の薔薇さまと呼ばれるだけの才覚を持つことを印象付け、将来の更なる成長を読者に期待させる意味合いもあったのかも知れません。
 かつて水野蓉子が夢見た「一般生徒で賑わう薔薇の館」を実現できるのはおそらく祐巳だけですし、彼女ならおそらくそれを成し遂げてしまうでしょう。「マリア様がみてる」には山百合会というソロリティを舞台にした学園物語という側面を持ち合わせていますが、その物語に『ゴール』があるとすれば、そのうちの一つは間違いなくこれになるのではないかと思われます。

 その一方、「自分のことになるとまるっきり鈍感」というネガティブな側面については、祐巳にすっかり恋い焦がれるようになってしまった松平瞳子の苦悩という形で、より明確に現れて来ています。

 祐巳が「自分の妹候補」を探すために茶話会を開いたという事実は、瞳子の目には「祐巳は自分を妹候補として特別視していない」サインとして映ったはずです。彼女はこのサインに対し、茶話会への参加をかたくなに拒否するという形で応えました。
 見かねた乃梨子が遠回しな表現で「茶話会を開くことが瞳子にとって何を意味しているのか」を祐巳に伝えたのですが、鈍感な祐巳には全く届かず、逆に瞳子の無念を想った乃梨子が涙を流す羽目に。

 祐巳は、これまで瞳子に対して『優しく』接して来た結果、彼女が自分に対してどんな感情を持つようになったのか、まったく気付いていません。というか、今の彼女ではそのことを想像すらできないでしょう。誰にも分け隔てなく優しさを振りまけられるところが祐巳の長所ではあるのですが、それ故に祐巳との「二人だけの特別の関係」、すなわち姉妹関係を望む者にとっては、その優しさが自分だけに向けられたものではないことを妬ましく感じるはずです。
 自分にとってその人は特別で、その人も自分を特別な人として見て欲しいのに、その人から見れば自分は特別でも何でもない。その人の優しさはその人自身の中から来ているものに過ぎず、決して優しさを向ける相手が自分だからではない。それが判っているが故に、優しくされるのが辛い。それが今の瞳子の状態なんだと思います。
 あの瞳子をここまで悩ませるだなんて、祐巳ちゃんもすっかり罪作りな女になっちゃいましたよねえ。

 まもなく刊行される「薔薇のミルフィーユ」は、本の構成が各薔薇ファミリーを主人公にした短編が一話づつ、合わせて三話の構成になることが既に告知されていますが、これはあのレイニーブルー」と構成が全く一緒であり、ファンの間からは「次の巻は、瞳子にとっての『レイニーブルー』みたいな位置付けの話になるのではないか」と噂されているとかいないとか(どっちだよ)。
 「妹オーディション」でストーリーが大きく進展した後だけに、どんな話になるのか楽しみです。

 とりあえず今の段階で確実に言えることは、今度の夏のコミケで「脱ぎかけ制服な格好で『撮って撮って』と蔦子に迫る笙子の姿を描いた同人誌」が必ず出てくることですね。見つけたら買います。勿論、乃梨子×瞳子本も見つけたら買います

マリア様がみてる ―妹(スール)オーディション
今野 緒雪 ひびき 玲音
集英社 (2005/04/01)
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2005/04/23

■いきなり最近読んだ本紹介:役割語の謎

 「そうじゃ、わしが博士じゃ」としゃべる博士や、「ごめん遊ばせ、よろしくってよ」としゃべるお嬢様に、実際に会ったことがあるだろうか。現実に存在する・しないに関わらず、いかにもそれらしく感じてしまう言葉遣い、それを役割語と名付けよう。誰がいつ作ったのか、なぜみんなが知っているのか。そもそも一体何のために、こんな言葉があるのだろう。
(ヴァーチャル日本語 役割語の謎より)

 この解説文に思わずグッと来てしまい、「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」(金水敏/岩波書店)を購入。
 期待に違わず、知的興奮を感じさせてくれる興味深い一冊でした。

 この本は、「博士言葉」や「お嬢様言葉」に代表される、その言葉を喋るだけでその人物がどのようなカテゴリーに属しているかを表現することが可能な「役割語」が何時どのようにして発生したのか、また我々が(実際にそんな喋り方をする人はほとんど実在しないにも関わらず)それらの言葉を聞いただけで「この人物は博士だ!」「お嬢様だ!」とステレオタイプを認識できるのは何故なのか、を探ることを目的としています。
 役割語の元になった言語の起源から、その言葉が「役割語」に変わっていく過程までを、数多くの資料を引用しながら判りやすく解説するスタイルで書かれています。個人的に興味がある分野だったこともあって、最初から最後まで楽しく読むことができました。

 また、このような喋り方をする人物が登場するのは主に小説やマンガといった大衆向けの娯楽文学であることが多いので、結果的にこの本は近代~現代にかけての文学史やコミック史を辿るような形になっているのが、我々のような本好きな人にとっては興味深いところ。
 実際、この本の中では「怪談牡丹灯籠」「東海道中膝栗毛」「吾輩は猫である」「ハリーポッター」「鉄腕アトム」「名探偵コナン」「エースをねらえ!」、果ては「ファイナルファンタジーIX」に出てきた語尾に「クポ?」とかつけて喋る変なキャラに至るまで、「役割語の謎を探る」という括りの中で一緒くたになって参考資料として扱われています。何というかこう、たいへんに愉快です。

 例えば『博士語』を解説している第一章では、今サンデーで連載されている「名探偵コナン」の阿笠博士が喋っている言葉の源泉を辿っていくと、「鉄腕アトム」のお茶の水博士→昭和初期のSF作家・海野十三の作品に登場する博士たち→明治時代の講談師が語った時代劇に登場する忍術の師匠、といった具合にどんどん時代を遡っていき、最終的には江戸時代中期に書かれた戯曲や歌舞伎に登場する老人が喋っていた上方言葉にたどり着くそうです。
 「名探偵コナン」が江戸時代にまで繋がっているだなんて、ちょっと興奮してきませんか博士。子供相手に変なガジェットを発明して喜んでる場合じゃないですよ博士。

 あと、役割語の最大の特徴は「この言葉を喋らせれば、キャラとして細かい描写をしなくても『こいつはこんなキャラだ』と認識してくれること」であるので、趣味でマンガや小説書いてる人にとっても、この本に書かれている役割語の使われ方は参考になるかも知れません。役割語の歴史は近代文学の歴史でもあるのです。
 ただ、フィクションの世界の役割語はあくまで「『役割語』から連想される程度の人物描写があれば十分な脇役キャラ」に対して使うのが本筋であって、逆に『主人公』は標準語を喋らないと読者が感情移入し辛い、とも解説しています。役割語には、視聴者や読者が感情移入するべき主人公とその他大勢を切り分ける仕掛けとしての役割もあり、実際数多くの物語がそれに基づいて作られていることを、この本は説明しています。

 とりあえずここは椎名高志ファンサイトなので、宇宙人であることを強調するために主人公の台詞の語尾に「カナ?」という役割語をつけたからと言っても、それだけでキャラクターが面白くなる訳ではなかったのであった! というオチで良いでしょうか。
 なつかしいなあ「一番湯のカナタ」(おわり)。

ヴァーチャル日本語 役割語の謎 (もっと知りたい!日本語) ヴァーチャル日本語 役割語の謎 (もっと知りたい!日本語)
金水 敏
岩波書店 / ¥ 1,575 (2003-01)
 
発送可能時間:在庫あり。

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■今更マリみて新刊感想

 「マリア様がみてる」における『姉妹の契り』は時折『婚姻』にも例えられますが、『涼風さつさつ』において祐巳が可南子相手に「いい子だとは思うんだけど、いざ妹にするとなるとちょっとなあー」とか色々妄想していた姿に、周囲から縁談を薦められて「悪い人じゃなさそうだけど、でもこの人とお付き合いをするとなるとちょっとねえー」と悩む自分の姿を重ね合わせてしまった経験がある、適齢期逸脱間際の善男善女の皆様こんにちはー!(挨拶)

 その件についてはノーコメント。深沢です。
 今更ではありますが、以下はみんな大好き超お嬢様わんさかコメディー「マリア様がみてる」最新刊・「特別でないただの一日」の感想です。いやその、急に書きたい気分になったのでつい。「マリみて」は時々熱がぶり返すのでヤバいです。

 もう発売から1ヶ月以上経過しているので、ネタバレ前提でお願いします。

 この巻が発売された当時、「マリみて」読者の最大の興味は、何と言っても「主人公の祐巳が誰を『妹』に選ぶのか?」ということであったのは間違いないでしょう。折しもこの巻が扱っている『学園祭』という舞台設定は「マリみて」第一巻で祐巳が祥子と姉妹の契りを結んだきっかけとなる事件が起こったという史実があるので、当然この巻では「祐巳が妹を誰にするかを決める、決定的な事件か何かが起こるのでは?」と期待する読者が多かったのではないかと思われます。
 …でも、その結果は皆さんも読んでご存じの通り。この巻の存在意義は、一番最後のシーンで祥子さまが祐巳に「妹を作りなさい」と言う状況を作るための壮大なネタ振りに過ぎなかったのではないか、と申しても過言ではないお話でした。

 「学園祭の一日は、祐巳にとって特別なものになるのではないか」という読者の期待感を、「特別でないただの一日」というサブタイトル、そして一番最後のシーンで祥子が祐巳に語った「今日は特別でも何でもない、昨日と変わらないただの一日よ」という台詞で完全にひっくり返してしまった作者のセンスと(良い意味での)底意地の悪さには、心底惚れ惚れさせられます。
 さすがはダブル受賞作家! センスが違いますね!(←私が言うと褒めてるように聞こえなくなるのは何故ですか)

 とは言うものの、話の中では最初から最後まで祐巳の「妹」候補である松平瞳子と細川可南子の動向がクローズアップされており、読者のそういう興味を更に掻き立てる効果を果たしたのもまた事実。
 瞳子が所属している演劇部で派手に問題を起こしたり、前々から張られていた可南子の「極度の男嫌い」(というか人間不信)の伏線の回収劇が多くの人を巻き込みながら壮大なスケールで繰り広げられたりと、どちらも負けず劣らずの暴れっぷりを披露してくれました。

 主人公の祐巳はどちらの騒動にも深く関与する(そして、結果的にそれが二人が抱えているそれぞれの問題の解決に繋がる)ことになるのですが、騒動の渦中にいる瞳子と可南子が祐巳と接する時の態度が、何だかラブコメみたいで微笑ましく思えて来るのが面白いところ。わざわざ祐巳と二人きりの時に学園祭の演劇の不満を愚痴り始める可南子といい、祐巳の視線を感じた途端にわざとらしく顔を背ける瞳子といい、どちらも過剰なまでに祐巳の存在を意識しているのは明らかです。
 二人とも口では「祐巳さまの妹にはなりたくない」と言ってはいるものの、実際にはどちらも祐巳にかまって欲しくて仕方がないのが歴然な描写がなされているので、彼女たちが祐巳と絡むシーンが出てくるたびに、私はもう始終ニヤニヤしっぱなしでした(悪趣味)。

 そして、今回の物語をより(色々な意味で)面白くしているのが、主人公の祐巳の天然ボケっぷりです。彼女は祥子お姉さまや友人のことになると勘が冴えるのですが、こと自分自身に関してはてんてニブいままであり、自分がどれだけ周囲からモテモテな状態になっているのか、この段階になってもまだ彼女は自覚していません。
 祐巳はこの巻においても、可南子や瞳子の「妹にはならない」発言を真に受けたまま、罪のない天使のような好意を彼女たちに向け続けています。可南子や瞳子は、上で述べたように彼女の存在を強く意識してはいるものの、自分から「妹にはならない」と言った面子もあるし、それに祐巳が自分の世話を焼こうとする感情にはまったく他意がないこともよく判っているため、祐巳の好意を知らないフリしてやり過ごすしかありません(物語後半の瞳子がまさにこの状態)。祐巳が接するたびに、彼女たちの緊張感は高まっていく一方なのです。
 そんな緊張状態の真っ直中に居ることを知らず、無邪気に振る舞い続ける祐巳の天然っぷりには、もはや微笑ましいを通り越して何だか怖ろしくなって来てしまいます。彼女のこの態度は、そう遠くないうちに何かとんでもない事態を引き起こすんじゃないか、と思えてなりません。

 今の祐巳をこのサイトらしく例えるなら、「MISTERジパング」に出てきた蜂須賀小六のこの台詞が適当かも知れません:

 「火薬庫で火遊びする奴は二種類しかいねぇ。
  何も分かってないバカか、よっぽど火の扱いに自信のあるバカだ!!

 「ミスジパ」の信長はどちらかと言えば後者に当てはまるタイプでしたが、祐巳ちゃんは自分が火薬庫にいることも、また自分が火遊びをしていることにも気付いていないという意味で、信長をはるかに超越していると思いました。
 さすがは、近い将来リリアン女学園を支配する女王となるであろう運命の持ち主! 器の大きさが違いますね!(←私が言うと褒めてるように聞こえなくなるのは何故ですか)

 この巻では「特別でないただの一日」という表題通り、姉妹関係については表面上の変化はありませんでしたが、でも可南子や瞳子と祐巳との関係は更に深まり、また緊張も高まりました。もはや、ちょっと祐巳が二人に対する態度を間違えたり、どちらかが本気で「妹にして下さい」とか言い出したりしたら、今の人間関係は一気に崩れてしまいかねません。この巻の最後の祥子さまの台詞「妹を作りなさい」は、そのことにあまりにも無自覚な妹に対して認識を改めさせる狙いがあったのではないか、とも思えてきます。

 そんな感じで、次回以降一気にヒートアップするであろう「祐巳の妹選び」のストーリーを楽しみに待ちたいと思いました。

 あと、こちらも諸般の事情で嫁選びを迫られている由乃の方ですが、こっちは祐巳と違ってどのキャラに対しても全くフラグが立たず、祐巳と漫才やっただけで終わってしまいました。祐巳はモテすぎちゃってヤバいんですけど、由乃は逆にモテなさ過ぎてヤバいことになっています。

 これはおそらく、このまま(劇中で)11月になっても妹が見つからず、困った挙げ句にそこら辺の知り合いの1年生を捕まえて「これから来るOGの前でしばらくアタシの妹のフリをしてくれない?」と頼み込み、山百合会の面々を巻き込んで周囲に散々迷惑をまき散らした挙げ句に江利子に一発で見抜かれてギャフン! みたいな、吉本新喜劇的なコテコテの展開をするための伏線と見ましたがどうか。

 そういや彼女の姉の令さまもすっかり「ヘタレ」のキャッチフレーズが似合う芸風になってしまいましたし、黄薔薇一族はどんどんヨゴレ役化して行く一方です。微笑ましい限りですね

マリア様がみてる ―特別でないただの一日 (コバルト文庫) マリア様がみてる ―特別でないただの一日 (コバルト文庫)
今野 緒雪
集英社 / ¥ 440 (2004-10-01)
 
発送可能時間:在庫あり。

※一応補足しておきますが、本来「マリみて」は姉妹制度をキーワードに少女同士の心の交流と成長の様を描いた少女小説であり、今回の「特別でないただの一日」でも可南子と瞳子がそれぞれ事件を通じて「相互理解」の必要性を自覚する様子が描写されています。一応、その辺はちゃんと判ってるつもりですので!(言い訳)
 おそらく次回以降では、今回とは逆に祐巳がこの二人を理解しようとする様子が描かれるのではないのでしょうか。

 なお、マリみてを「相互理解」というキーワードで判りやすく論じているサイトとしては、「ランゲージダイアリー」(あいばゆうじさん制作)がお勧めです。「mot×mot」の時代から楽しく読んでました(カミングアウト)。
 「ガンダムSEED DESTINY」や「武装錬金」の感想も熱いので、そちらが好きな方もぜひ。

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2005/04/20

■ブックレビュー:お嬢さまことば速修講座

 「覚悟」とは苦痛を回避しようとする生物の本能すらも凌駕する魂の事であるが、
 「お嬢さま」とは己の気品と尊厳を以て世界と戦う意志を秘めた、気高き魂の有り様の事である!

 そんな感じで、週末に出かけた先の本屋にあった「お嬢さまことば速修講座」(ディスカヴァー・トゥエンティワン、監修:加藤ゑみ子)を買ってしまいました。本の存在は知っていて前からちょっと気にはなってはいたのですが、書店で本物を見た途端に私の中の乙女要素が疼いてしまってつい。
 ごきげんよう(挨拶)。

 それでこの本、タイトルに「速修講座」と銘打ってあるだけあって、いわゆる「お嬢さまことば」を使って会話をするためのコツが、要点を押さえた形で簡潔にまとめられているのが特徴です。文体が「ベテランの礼儀作法の先生がお嬢さまに心得を説く」ような形になっているので、読んでいるうちに自然と自分が「お嬢さま修行中」みたいなマインドセットになること請け合い。
 内容も、実際に「お嬢さまことば」を使う人の喋り方をリサーチして作成されたと言うだけあって、極めて実用的で判りやすく作られています。
 曰く、

  • お嬢さまなので、「どうも」の代わりに「恐れ入ります」を使う。
    「どうも」と言ってしまうとお里が知れる
  • お嬢さまなので、語尾に「こと」「の」「て」を付ける、いわゆる「ことのて結び」を使って雰囲気を醸し出す。「ですね」→「ですこと」、「そうですか」→「そうですの」、「いいの?」→「よろしくって?」等々。
    これらをマスターしないうちにお嬢さまを気取ろうとしても、お里が知れるだけである。
  • お嬢さまなので、何か質問されたら必ず「さようでございますか」と相槌を打つ。否定的な回答をする場合も、返答の言葉は同様。肯定・否定を曖昧に表現するのがお嬢さまである。
    相槌に「ええ」「はい」を使う時は、決して二回以上重ねて「ええ、ええ」とは言ってはならない。使うとお里が知れる
  • お嬢さまなので、困った事態になったら沈黙を守る。あなたが本当のお嬢さまであるならば、慌てずにっこり微笑んでいるだけで、周囲の人々があなたのために事態を収拾してくれるはずである。
    慌てて取り繕うようではお里が知れる
  • お嬢さまことばを使う時は、恥ずかしがらずに最後まで、ゆっくりした口調ながらも明瞭に喋ること。「ごきげんよう」の挨拶も元気よく。
    語尾を省略したりすると、普段使い慣れない言葉を使っているのがバレてお里が知れる

 万事がこんな調子で、お嬢さまを演じきるために必要な心得や技術が一通り書かれてます。
 この本を読む必要があるのはお嬢さまでも何でもない普通の人々ばかりなので、お里が知れて俗物扱いされてしまっては元も子もないのであります。

 でもまあもっとも、実践編の最後の方にはちゃんと「どうせ相手も『お嬢さま』ではない可能性が高いので、とにかく照れずに自信を持ってお嬢さまことばを使え」みたいなことが書かれているんですけどね。現実社会にはもはやリアルなお嬢さまはほとんど存在していないということは、本を作る側もちゃんと認識しているのです。
 以前ここで紹介した「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」にも書かれていたことですが、現代社会における「お嬢さまことば」とは、『この言葉を使う人はステレオタイプなお嬢さまである』ことを表現するために存在している、限りなくフィクションに近いものに過ぎないのです。実際にお嬢さま言葉を使っているのを耳にしたことがあるのは、アニメ版「マリア様がみてる」の小笠原祥子さまの台詞だけ! なんて方も多いのではないのでしょうか。

 では、何故今あえて「お嬢さまことば」を使うのか。この本では、それを「気品」という言葉で説明しています。
 お嬢さまことばを使う効能として、この言語体系で喋ろうとすると、自然と語り口が謙虚で慎み深く丁寧な、いわゆる「お嬢さま」っぽいものになることが挙げられます。お嬢さまことばを操るためには知性が必要なので、喋りながらも「短縮せず、ゆっくり、最後まで」を心がけながら常に頭を働かせることで、自然と慎み深く丁寧な、気品を帯びた口調になるのです。
 即ち、お嬢さまことばには独特の「気品」が宿っており、それ故に使う者の言動や考え方を律する効能があると考えられます。言葉が自分に馴染んで行くに連れ、「お嬢さまことばを使う自分」を自己肯定的に捉えるようになり、やがてその人は自然とその言葉を発するに相応しい気品と人格を宿すことになるでしょう。

 そして会話の相手に対しても、「丁寧に喋るお嬢さまと会話をすることで、自分の社会的な立場を高められた感覚」を与えることができ、その相手もまた自分をそれ相応の人物として尊重して接するようになる――と、この本は説きます。相手と自分が相互に高め合う関係になることができれば、自分の「お嬢さま」としての立場は相手が作ってくれるのです。これこそが、お嬢さまことばの本当の力であると言えます。言葉には魂が宿ると申しますが、お嬢さまことばには文字通り「世界を変える力」があるのです。
 「マリみて」にも、祥子さまにお嬢さま口調で話しかけられた書店員が、彼女の気品っぷりに圧されて突然丁寧な口調になって返答するなんてシーンがありましたけど、これは現代でもお嬢さまことばの力が十分通用することを端的に象徴したエピソードであると言えましょう。

 現代社会でお嬢さまことばを使うということは、相当にしんどいことです。ヘマすれば簡単にお里が知られてしまい、高貴なお嬢さまから「は、はわわわ~」なドジッ娘に地位が逆戻りしてしまいかねませんし、更にはせっかく習得したお嬢さまことばを他人の悪口を言うことに費やす、お嬢さまの暗黒面に目覚めてしまう可能性があるのもまた事実。
 しかし、お嬢さまことばが世界を変える力を持つ言葉である以上、使う者にもそれ相応の心構えが必要になるのです。例えば、「マリみて」の小笠原祥子さまはほとんどの局面においてお嬢さまことばを使いますが、これは単に「彼女は生粋のお嬢さまである」という作品内の記号的な意味合い以上に、「彼女はお嬢さまことばを常に使うことで、己の気品を保とうとしているのだ」と知ることが重要なのです。彼女は親しい人相手にもあえてお嬢さまことばを使うことで、彼女の世界を彼女自身が「お嬢さま」として気高く振る舞うに相応しい場所にするため、あえて日々世界と戦って学園の品位を上げようとしているのです。
 祥子さまはただの根性曲がりじゃないんですよ! クィーンオブ根性曲がりなんですよ!(うるさいよ)

 なお、「お嬢さまことばで罵声を浴びせられたい!」と懇願したいどうしようもないマゾヒストな貴方には、この本の巻末にちゃんと「お嬢さまらしいけなしことばリスト」が掲載されているので、「ふくよかでいらっしゃる!」(デブに対する言い回し)「お派手な趣味でいらして!」(悪趣味な人に対する言い回し)などの、なまじ政治的に正しいためにかえって怖い言葉の数々を祥子さまヴォイスで脳内再生し、存分に悦に浸って頂きたい。

 またbk1にトラックバックできないような書評を書いてしまいました(書評?)。

お嬢さまことば速修講座 お嬢さまことば速修講座
加藤 ゑみ子
ディスカヴァー・トゥエンティワン / ¥ 1,260 (2000-12-24)
 
発送可能時間:在庫あり。

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2004/08/03

■「マリみて」短編・図書館の本

 先週は職場の夏休みだったということもあり、少女マンガや少女小説などの乙女チックな物件を中心に買いあさって悦に浸ってました。夏なので(関係ない)。
 そんな訳で、せっかく色々買ったので簡単なレビューを。不定期に追加していきます(理由:買ったはいいけど読んでないものばっかりなので)。

隔月刊コバルト8月号(集英社)

 この号に掲載されている「マリア様がみてる」の短編『図書館の本』の評判が、ファンの間でやたら良さそうだったので(生まれて初めて)購入。
 『図書館の本』の読後、何故か頭の中に「覚悟のススメ」の瞬殺無音部隊長・葉隠四郎が現れて

 「何よりも強きもの! 母と子の絆!
  さらに強きもの! 帝国(リリアン)と軍人(生徒)の絆!

 と邪悪な笑みを浮かべながら呟く、コミックス10巻の光景が浮かんでしまいました。どうしよう
 やっぱり、「マリみて」と山口貴由のマンガって相性がいいのかな!(オレの頭の中でだけ)

 そんな感じで、「リリアン女学園」はあらゆるものを結ぶ"絆"としてあまねく世界に遍在している――というこの作品独特の世界法則に沿った、短いながらもキレイにまとまっているお話だと思います。ファンからの評価が高いのも納得。
 読んでいて感じたのが、「小説」という表現媒体の利点を活かした物語の進め方(というか、肝心の「謎」の伏せ方)の巧妙さ加減。同じ雑誌の中には正直「これって、小説じゃなくてマンガで表現するべきお話じゃ?」と思ってしまうものもあっただけに、作者の今野氏の「小説」ならではの表現手法に感心させられました。やっぱり、伊達に人気作家やってないね!(エラそう)

 あと今号のコバルトには、前田珠子先生の作品も載ってました。その昔「破妖の剣」シリーズが好きだった私としては、氏がまだ現役で書いてるのが確認できてちょっと嬉しかったり。『破妖の剣』を最初に読んだのは、確か今からもう15年くらい前のことでした。
 ところで、結局「破妖の剣」って、まだ完結していないのでしょうか。ここだけの話ですが、自分が死ぬまでにやっておくべきToDoリストの中には、「もし『破妖の剣』が完結したら、まとめて買って読むこと」という項目があるので、ちょっと気になってます。

 まあ、「マリみて」も今のペースではあと15年経っても絶対に完結しないと思うので、どちらも完結する時を気長に待つことにして行きたい。退職金でコバルト文庫をまとめ買いする、そんな第二の人生を夢見る今日この頃です。乙女ちっくな夢だ(ウソ)。

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